Sunahara Kanon's Diary

ロシアで子育て奮闘中、バレエダンサーの雑記帳

慶子

まず、この記事を書くにあたって題名に悩んだ。
前回に引き続き、「親友②」にしようかと思ったのだが、ちがう。
慶子は親友どころではない。

慶子とはボリショイ留学時代、2年目に差し掛かった時に知り合い、それ以来ボリショイの学生時代を同じく過ごしているので 戦友 ― 親友 ― 言葉では表せない、慶子は慶子。

当時ボリショイ留学2年目の私は15歳、日常生活には困らないくらいにはロシア語は話せていたし、つるむ友達はロシア人。クラスのロシア人とばかり一緒にいた。
私にとって人生初めての友人は、グルジア人のタマーラ。同じクラスにいた美女。
あまりに距離が近すぎて美女、という感覚は一切なかったけれど、今となって考えれば絶世の美女である。

慶子との出会いは、まるで昨日のことのようによく覚えていて
寮母さんに「今夜、新しい日本人の子が来たら、あなたと一緒の部屋に住むから面倒みてあげてね」と言われ、楽しみにしながらタマーラと二人、安いヨーグルトを食べながら待っていた。

随分長いこと待って、ようやく来たと思った女の子は私よりも明らかに年上のお姉さんで、綺麗な人だった。
ただ、私は日本人と接する免疫がない。日本人の綺麗な女性を見ると、日本でのコンクール会場や先生を思い出す。
なんて声をかければいいのかわからなかった。かなり緊張した。
その女性は満面の笑みでこのボロ屋敷、私の部屋に入ってきて「慶子でーす!!!!よろしくお願いします!」とにかく嬉しそうで、しかし妙に変わった日本語だった。

しばらくして知ったことは彼女は大阪人で、当時、関東と弘前以外行ったことがなかった私にとっては大阪は外国、この女性は外国語を話すのだということがわかった。
だけれど、私はこの女性とはすぐ、親密な関係になりたいと思った。

一緒の部屋で暮らし始めたものの、学年もクラスも違うので四六時中一緒ということはなく、慶子と部屋で過ごすのは朝晩、それから休憩の間。
私が聞いたこと無い日本の歌や映画、そして高校の数学教科書というものを目にした。
そして、慶子と暮らしているうちで大阪は外国ではなく日本であり、関西弁というすばらしい言葉を私も段々と覚えていった。
人との接し方も彼女を見てなんとなく真似してみたりしていた。

14歳、中学2年生の途中でロシアに来た私は、「友達」を作るという概念が全くなく、
ロシアに居るからロシア語を話さなければならないと思っていたし、ロシア語を話せるようになっていく自分がとにかく楽しく、ゲーム感覚でロシア語で生活していた。

留学して2年目、ロシア人とばかりいた思春期真っ盛り15歳の私、初めての経験!
休日には慶子と外出をすること ―彼氏か? と思われそうだが笑。
日本人と日本語でコミュニケーションをとるのはなんて心が休まり、なんて気が軽く、なぜこうすべて伝えたいことが伝わるんだー!と、とにかく嬉しかった。
慶子は私にとっては初めての日本人の友人であり、とても大切な女性です。

と、ボリショイ卒業(2010年)のときには更に強く、慶子のことを思った。
3年間過ごした相手と会えなくなるってどういうこと!?かなり寂しかった。

さらに1年後、2011年春、私はボリショイ大学受験のためモスクワへ。
受験教室へ行くと、慶子が居たーーーー
これはもう運命なのでしょう。
そして同じくボリショイの大学へ入学し、同じく卒業。
慶子は日本で生きる道を見つけ、私はロシアに残ったので、1年に2回会う、など定期的に会える機会はなくなってしまったが
友人だからこそ毎日会わなくてもいいものだと思う。
ボリショイ留学も大学も、つらい思い出のほうが多いが、いや、つらい思い出がほとんどだが、
過ぎ去った過去のことはすべて美となれ。
私は慶子と出会えたことも、ボリショイ生活でのうちで最高の出来事のひとつだと思っている。
慶子ー!いつも想っているよ。
そして私達、どうしてこう目が大きくなってしまったのかしらね。